なぜ精神科医になったのか

2014年06月27日の日記(僕はパパを殺すことに決めた)
私は昨日、父親との縁を切りました。
二度と会う事は無いし、冠婚葬祭を含めて関わる事はない。
子供が生まれても決して会わせはしない。
死んでも葬儀には出ないし、相続もしない。

どうしてこうなったのかを含めて、彼を簡単に紹介します。

東京大学理科Ⅲ類出身。医師。
神童と謳われ、学習塾では教える事がないと拒まれた。
全てが思うがままだった。
そのまま人生は進むと思っていたのだろう。
理想通りに結婚し、順調に跡取り息子も生まれた。
それが私だ。

ただ、私は彼の思う程には出来が良くなかった。
2歳の時には、時計がすぐには読めなかったし、足し算すら出来なかった。
そのせいで殴られ、鼻血を流した。
そして、私が不出来なのは母のせいだと責め立てた。

以降、彼は些細なことで激昂する様になった。
母と私に罵声を浴びせ、殴る蹴るを繰り返し、家の中の至るものを破壊した。
母は病院に駆け込み、頭を縫った事もあった。
小学校の1年生の時に水泳教室を休んだら、手の甲と尻タブに御灸を据えられて、数日間学校を休まされて、食事を貰えなかった事もある。
1週間痛み続けたし、最初の夜は痛みで寝られなかった。
今でも火傷の痕は残っている。
階段から突き飛ばされたり、椅子を投げつけられたりした事もあった。
本当によく死ななかったものだ。
たぶん、死ぬ寸前のところで止めていたのだろう。
彼は‘優秀な’医者なのだから。

中学入試が終わった段階で、絶対に医者にはなりたくないと思っていた。
高校生になってからは『おまえは不出来だから、医者になるしかないんだ』と言われたし、
『医者じゃないなら生きている価値がない』とも言われた。
だから、法学部に行きたいと告げたときには、当然殴られたし、『今後金は出さん』とか脅された。

その後の流れは省くが、結局医学部に入って、親子関係は一旦正常化した。
5年ほど、初めて過ごす平穏な日々が続いた。
しかし、昨年の或る夜に、過去の虐待を持ち出したことから、関係は悪化した。
体格で敵わなくなった父は、私を無視するようになった。
普段は別に暮らしているので、それほど問題はなかった。
しかし、先日、祖母に大事があり、母は田舎に戻り、種々の事情で私は実家に戻らざるを得ない日があった。
事件はその夜のこと。

帰るもドアのチェーンが掛かっており、呼び鈴で父を呼ぶしかない状況だった。
しばらくして扉が開き、中に入った直後の事だった。
『なんで勝手に帰って来たんや』と第一声。
戸惑う私の答えを待つことなく、木刀の様な木製の靴ベラを手に取り、振りかざした。
咄嗟に反応するが、丸腰では急所を守るのが精一杯で、腕で受け止めざるを得なかった。
ただ、腕が熱かった。
尚も次の一撃を見舞おうと靴ベラを振り上げる父に、足を向け防御態勢を取り、睨みあった。
次の一撃は無かったが、「どうしてお前の頭はいつもそんなに軽いんや」などと大声で罵られ続けた。
生まれてからずっと植え付けられた記憶が甦り、既に萎縮してしまっていた。
どうにかやり過ごし、自室に入ったが、寝たら襲われそうな気がするから、意識を閉ざしたくない状態だった。
殴られた腕は、血が出るし、腫れも強い。
悔しかった。
悲しかった。
二十数年間の恨み、憎しみが込み上げてきた。
涙が溢れ出た。
ほんの一瞬やり返したいとも思ったが、もし手を出せば、殺してしまいそうな気がして、必死に思い留まった。
深夜2時頃、田舎にいる母に状況報告のメールを送った。
しばらくして、母から電話が来た。
何度も謝られた。
始発までは待つつもりだったが、直ちに逃げる様に言われた。
そして、私は着の身着のままで飛び出した。

一人暮らしの家に戻る途中、過去と未来の全てに想いを巡らせた。
そして、再び母と電話で話し、その決断を伝えたのだった。
父との縁を絶つと。

タイトルは、私が最も胸を打たれた本の名前です。
発禁本に指定されたと思いますので、内容を簡単に紹介致します。
医師の息子が極度のスパルタ教育を受け、私の様に虐待された揚句、家に放火し、後妻と腹違いの兄弟が命を落としてしまった事件に関する本です。
社会的な評価が高い人物であったとしても、家に帰れば鬼になる父親もいるのです。

ひょっとしたら似たような境遇で苦しんでいる方もいらっしゃるかもしれない。
そう思って、今回は正直に綴りました。
この本の様な悲しい事件は防ぎたい一心です。
もし、これを読んだあなたがお困りならば、御連絡下さい。
何か出来る事があるかもしれません。
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2016.10.28追記

この日記には重大な嘘がある。

母も純粋な被害者のように書いてしまったが、彼女自身も私を虐待した加害者だった。
小学校を休まされて食事を与えられなかったときに、父親に隠れて食事を与えることは十分にできたはずなのにそれをしなかった。
あろうことか、母親自身も私を殴ったり、階段から突飛ばしたり、椅子を投げつけたり、一通りの虐待を行ったのだ。
私が成人してからも関係の修復は結局できなかった。
私の預金を使い込んだことも発覚した。
公表するのがためらわれるようなことも多々あり、身の安全のために一切の親族と絶縁している。

社会的に自立することができたのはラッキーケースなのかもしれないが、似たような過去を持つ人、現に苦しんでいる子供のためにできることをしたい。
それが精神科医になった理由である。